自分は、いわゆる「クルマ好き」という言葉で表現されるほどの人間ではないと思う。クルマに特別詳しいわけでもなく、スポーツカーに乗り回しているわけでもない。ユーノスロードスターに乗っていたことはあるが、特に改造することもなく、ただ運転することが楽しいと思っていただけだ。レーシングカーを見るのは好きだが、専門知識を持ったマニアと深く語り合うような知識はない。だが、JAF公認のレースで優勝した経験があることだけは自慢できることだと思っている。ただ、これだけで「クルマ好き」と名乗るのはおこがましい気がする。どちらかと言えば「運転好き」のほうが、自分にぴったりだと思っている。
この記事では、そんな私がどのようにして運転好きになったのか、人生の歩みとともに語っていく。なにしろ、40年以上も人生を過ごしてきたので、それなりに書くべきことはある。少しずつ加筆していくつもりなので、たまに立ち寄って読んでいただけたら嬉しい。
幼稚園時代
幼稚園時代の記憶は薄い。だが、鮮明に覚えているいくつかの出来事が、今の自分に大きな影響を与えているのは間違いない。特に記憶に残っているのは、当時住んでいたアパートの下の階に住む同い年の男の子との遊びである。その子が持っていたクルマのおもちゃは、今でも鮮明に覚えている。
それは電池で駆動する四輪駆動のクルマのおもちゃで、公園を勢いよく走り回る姿が印象的だった。のちにそのおもちゃが「ミニ四駆」と呼ばれるものだと知る。あの小さなクルマが爆走する光景は、間違いなく私の人生に影響を与えた。あのときの感動が、私の「クルマ」への興味の始まりだったことは間違いない。
もうひとつ鮮明に覚えているのが、親が見ていた海外ドラマ『ナイトライダー』である。クルマと会話し、悪者をやっつけるこのドラマは、幼い私の心に強烈なインパクトを残した。「クルマと話す」なんてあり得ない話だが、サーキットを走っていると「クルマと会話」しているような感覚に陥ることはある。クルマ好きにとって、クルマとの会話は何歳になっても実現してみたい夢である。子供だましと馬鹿にはできないと個人的には思っている。
小学校時代
小学校時代にハマっていたものは、少年野球とミニ四駆とロボットアニメだ。少年野球は平日の朝に練習し、土日に試合があったのだけど、朝早く起きることに対して今でも抵抗が無いのは、ひょっとするとこの時の経験からなのかもしれない。
ミニ四駆は小学校の低学年の時代から本格的に遊んでいた。親戚のお兄ちゃんが中学生になったことで、ミニ四駆のパーツのお下がりとオーバルコースを貰ったため、お小遣いを消費することなくミニ四駆で色んな改造をして走らせることができたのは貴重な経験だったと思う。
小学校時代に好きだったアニメは数多くあるけど、一番影響を受けたのはロボット系のアニメだろう。最初はアニメではなく特撮の戦隊モノ、次にアニメのエルドランシリーズや勇者シリーズを経てガンダムに辿り着いた。以降ガンダム作品は現在に至るまで欠かさず最新作を追いかけるほど好きなアニメとなった。
中学校時代
中学校時代は少年野球からの流れで野球部に入ったが、遊びの興味はミニ四駆から徐々にプラモデルへと移行していった。中学校の部活は少年野球と違って、練習はそれなりに厳しかった記憶がある。
プラモデルにハマったきっかけはガンプラだろう。小学校時代のミニ四駆で手先は鍛えられていたので、そこに塗装の要素が加わり、完成させて飾るのが楽しかった。この頃からモノ作りへの関心が高まっていった。
F1をTV中継で初めて見たのは中学時代だった。1998年の日本グランプリのTV中継で目にした黒と銀色のマシンがとてもカッコ良く、それがF1との出会いだった。この時の優勝ドライバーがミカ・ハッキネンで、同時にタイトルを獲得したことが印象的だったため、筆者が使っているヘルメットのカラーリングはミカ・ハッキネンのヘルメットを踏襲している。
高校時代
高校は工業高校に通ったため、興味の対象はクルマへと集中していった。工業高校の機械科ということもあり、まわりにはクルマ好きの友達ばかり。さらに頭文字Dブームが起こったのもこの時期で、クラスで単行本を回し読みしていたことはハッキリと記憶している。
工業高校ならではの専門教科の勉強が楽しいと感じたのは新しい発見だった。小学校・中学校と勉強を1ミリも面白いと思ったことがなかったのに、好きな分野に関してだけは特別なパワーを発揮できるようだった。
レーシングカートという乗り物の存在を知ったのは高校時代だ。友達と3人でレーシングカートのレンタル走行に行ったのだが、あまりのスピードに全然アクセルを踏むことができなかったのを覚えている。
それ以降レーシングカートを買おうと思って新聞配達のバイトを始めたのだが、レーシングカートを買える金額には届かず、普通自動車免許の教習所代へと消えて行った。
大学時代
大学は自動車整備の短大に行ったこともあり、ここから四六時中クルマのことを考える生活が始まった。大学時代は親がクルマを持つことを許してくれなかったため、代わりにバイクを購入して北海道の色んな場所へツーリングに出かけた。
ちょうどこの頃に「1年の半分近くが雪で覆われる北海道は、クルマ好きにとって退屈な土地なのでは?」と思うようになり、就職先は北海道外で探すことを決意した。
草レース時代
神奈川県にある自動車関連の会社に就職し、ユーノスロードスターを購入。そこから毎週どこかしらのサーキットに遊びに行く生活が始まった。
特にユイレーシングスクールとの出会いは大きな転換点だったと思う。クルマの運転の基礎をしっかり学びつつ、スクール生同士の草レースで実力試しもすることができた。
草レースも十分に面白かったのだが、草レース仲間の中には本格的にJAF公認のワンメイクレースに出場している人も多かった。いつかは自分も腕試しで挑戦したいと思い、草レースに出場しつつ少しずつお金を貯める日々を過ごした。
FJ1600時代

JAF公認のレースに出場したいと思い選択したのがFJ1600というカテゴリーだった。レース観戦もGTよりフォーミュラが好きだったし、どうせ出場するならば一番難易度が高いと言われているカテゴリーに挑戦したかったからだ。
知り合いの伝手で出入りすることになったレーシングチームからFJ1600車両を購入し、自力メンテナンスで出場するという、完全プライベーターでのFJ1600出場は周りを見渡してもほとんどいなかった。
出場した最初の1年目は、当然鳴かず飛ばずの結果となってしまい、資金も尽きてしまった。次の1年を練習と貯金に集中し、3年目に念願のフル参戦を果たす。最高順位は6位入賞と翌年以降に希望が持てる成績となったが、残念なことにFJ1600のレースはこの年をもって終了してしまった。
スーパーFJ時代

FJ1600のカテゴリーが消滅してしまい、次に何に出ようか迷っていたところに、格安でスーパーFJを譲ってくれる話が舞い込んできた。二つ返事で購入する意思を伝えて、翌年からスーパーFJへと出場した。
このスーパーFJのドライブには苦戦を強いられた。あまりマシンの性能が劣っているとは言いたくないのだが、この時私が乗っていたのは戦闘力が低いとされる車種だった。それでも一矢報いるために頑張ってはみたものの、パフォーマンスを維持するための労力とコストの折り合いがつかず、スーパーFJのレース出場は2年ほどで終了した。
VITA時代 ~ 現在

スーパーFJでの成績低迷で引退を考えていた時に、一度お試しでレンタル車両で出場したのがVITAのレースだった。カウルを装着したフォーミュラーライクなマシンのデザインは正直好きではなかったが、このマシンのドライビングフィールは好感触だった。
初戦からFJ1600とスーパーFJ時代にまったく歯が立たなかったドライバー達と肩を並べて4位入賞。レンタルでの参戦スタイルが自分のライフスタイルとも上手くかみ合い、その後もスポット参戦を続け、これまで筑波サーキットのみに出場していたが、モテギや鈴鹿のレースにも挑戦した。
レース戦績
FJ1600
- 出場:9戦
- 最高順位:6位
スーパーFJ
- 出場:8戦
- 最高順位:9位
VITA
- 出場:19戦
- 優勝:1回
- ポールポジション:2回
- 表彰台:7回
- 入賞:13回